人の降る街
― 街角の異端哲学者 ―
些谷将臣『偏導体の退化による感情の衰退説』について。
皆は知っているかな。
僕も最近 学んだ言葉だから、知らない人がいても当然の事だと思うけど。
メディアでも馴染みのない言葉だから、無理もないんだ…。
行き交う人の波間を漂っていると。自分がそんな当たり前の日常の一部にすぎない事に、痛みを感じる事がある。
胸の中央。腹部から突き上げてくるような、呼吸までも困難にする、鈍く、重苦しい感覚。
どうだろう…通じるかな。
とは言っても、誰に話すわけでもない。僕の中だけの、ただの独り言だけど。
誰か、分かってくれる人がいるならば、僕の気持ちを共有してくれる人がいるならば、聞いて欲しいと思う。
行き交う人の波間を漂っていると。ふと立ち止まってみたくなる事ってないかな。
いつも胸のどこかに有り続けて消えない、不安にも似た気持ちに堪らなくなった時。
僕はいつも空が恋しくなるんだよ。
だから、街の排気で濁った空気を吸い込んで、見上げるんだ。
視界に入るのは、決して空とは言いがたい光景だけどね。
でも、心の中にある青色で想像する。天蓋で覆われたその向こうにある、風と雲が流れる空を。
そして、それらから連想される自由というものを。
いつか、別れた恋人に話した事があったんだよ。
同じような事。
そしたら彼女は、呆れたように笑って僕に言ったんだ。
「なに言ってんの?」
詳しく話してみても、彼女の反応は相変わらずで。
僕はその時、彼女に物足りなさを感じたよ。
「マジ呆れる。空とか自由とか、懐かしさを感じるとかさぁ。今だって十分 自由じゃない?」
違う…。
違うんだよね。
確かに この世界、中層市民としての生き方の範囲内では、ある程度の自由はあるかもしれないけど。
やっぱり違う。違うんだよね。
そんなんじゃなくてさ。
誰か、分かってくれる人いるかなぁ。
僕らって、このままでいいのかなぁ。
親とか、学校の教師とか、会社の上司にさ、
「なあ お前…。このままでいいのか?」
なんて事を言われた時なんかに よく返す…。今、目の前にある何かのための、
「すみません…。もっと頑張ります…」
みたいなのじゃなくて。
もっと…もっと近い所で、本当は分かってる…『ちっとも よくないよ』って気持ち。
本能みたいなものが感じる…何かさぁ、人間としての感覚って言ったらいいのかな。
小さいようで、実は途轍もなく大きい…。
違和感だよ。
そう、違和感。
それを感じるとさ、やっぱり思うんだ。
ふと立ち止まってみたくなってね。上を向いてね。
僕には もっと違った生き方があるんじゃないかって。
だけど、ある時 僕は気付いたんだ。つい先日だよ。
噂に聞いた事があった、スラム街から時折現れるという、一人の男の話を聞いて。
彼はいつも、僕の通勤路にもなっている街角に立っているらしいんだ。
その日は たまたま出くわしたんだと思うけど。僕はすぐに分かったよ。
彼は噂通りの人だったから。
元々の色なんて分からないくらいに汚れた土気色の服に、だらしのない着こなし。
とても元・最高層の学者だった人間とは思えない貧らしい姿だった。
それも あくまで噂に聞いた話だったから、本当の事かは分からなかったけど。
でも彼は自らを哲学者と言って、落ちぶれたその姿、恰好には見合わないくらいの口調で、言葉で、人々に向かって叫んでいたんだ。
そうして僕は思わず…、
「よう ぼうず。 まあここに座って話を聞きな」
そう言って はにかんだ彼の言うとおり傍らに座って、彼の演説を聞いた。
そしてね、感動したんだ。これだって思ったよ。
僕が感じていた違和感に対して、胸の中の小さな点が発していた痛みの謎。
空が、自由が、懐かしいと感じるその理由を、ようやく見つけたんだって。
やつぱり このままじゃいけないんだって。
だから僕は昨日、会社の上司に退職願を出して来た。
そして帰りに立ち寄った店で、でっかい電子メガホンを買って来たよ。
かなり昔の安いやつだけどね。
残ったお金は、貯金と合わせて違うものを買うために使いたかったから。
街角の異端哲学者は喜んでメガホンを受け取ってくれたよ。
お前は馬鹿だが利口な人間だなんて、わけの分からない事なんか言ってくれちゃってさ。
でも…僕は嬉しかったよ。
彼の名は『ウルフ』…自称、街角の異端哲学者。
髭を延ばしっぱなしにしてるから、ちょっとオッサンくさいけど。見た目より結構 若いんだ。
三十…四、五。だったかな。
あ。十分オッサンか。
僕は同じ日に彼と約束して来たんだ。
今度いい整備工場を紹介してもらう事になってる。
だから、はりきって貯金はたいて買ってきたんだ。最新型の『バード』を。
どうせ近々 彼とその整備工場に行って、生まれ変わるんだけどね。僕と一緒に。
この中層市から見上げる天蓋区の向こうに想った、空のように青い…。
青い鳥に…。
反政府派組織・ブルーバード。
改造されたバードのイメージから付いたらしい名前。
僕も新品のバードも、いずれは お揃いの色に染まる。
指導者ロキシとも、もう話が付いている。ウルフの話ではね。
だから僕は、これから思う存分 言ってやろうと思うんだ。ウルフと一緒に…。
僕の名前はディートエル。街角の異端哲学者の一番弟子。
皆は知っているかな。
僕も最近 学んだ言葉だから、知らない人がいても当然の事だと思うけど。
メディアでも馴染みのない言葉だから、無理もないんだ…。
だから聞いて欲しいと思う。街角の異端哲学者に、僕が学んだ事。
誰か…分かってくれる人がいるならば、僕の気持ちを共有してくれる人がいるならば…。
『偏導体の退化による感情の衰退説』について。
これまでの歴史の中で人類が目指し続けてきたもの。
争いの無い平和な世界。
例えば殺し、盗み、暴力的制圧、性犯罪。醜い争いの数々。
そんな言葉とは無縁の世界を実現するために誰かが始めたのが『理想都市計画』。
しかし、それらの犯罪や人々の争いを無くすためにはどうしたらいいのか。
誰かが考えた。まずは、それらの実例と審判の用例が必要であると。
そして作られたのが最高層以下の四つの階層。最下層、下層、中層、高層都市だ。
ものの考え方により人間は個々の違いを持ち、様々であるが。
先に述べたように都市を階層分けし、人々をそれぞれに見合った階層に住まわせる事で、人間を大まかに分類する事が出来る。
するとだ。各階層ごとに起きる犯罪に固有する特徴を明確にし、他の階層で起きる犯罪や、それに伴った審判の違いなどを見出す事が可能となるわけだ。
絶対秩序を作り上げるべくして法の制定を図るには、それらの用例から人間が『してはいけない事』と『しなければいけない事』を、事細かに揚げていかなければならない。
逆を言ってみれば、『してはいけない事』と『しなければいけない事』を明確にし、それによって人間を束縛する事が『絶対秩序』の真相だ。
つまり最高層以下の階層は、理想都市計画ための実験台にされているわけだ。
しかし、絶対秩序を作り上げるためには法を守る人間の、それなりの社会環境も重要になってくる。
そこで最高層では、催眠や洗脳に近い形で人の感情を抑制し、自我や欲求が強い人間には特殊な薬を用いてまで、感情などの束縛を図り、支配している。
だがそこで、ある問題が発覚したのだ。
感情を抑制、制御された人間は、自らの欲求や行動のみならず、他人の行動にさえ興味を示さなくなる。
絶対秩序により支配された事で争いがなくなると、怒り、嫉妬、憎しみ、悲しみなどのネガティブな感情が必要とされなくなるためだ。
という事はだ。悲しむ事が無くなるり、涙を流す必要がなくなる。そして人の感情に興味が無くなるという事は、コミュニケーションをする必要もなくなる。
よって、脳の一部であり、感情を司る偏導体の退化が進み、人間本来が持つべきものとしてきた感情の衰退が始まるのだ。
そして、コミュニケーションの必要性が無くなるという事は、その手段であった表情というものがなくなり、顔の筋肉が衰える。
会話をする必要もなくなれば、言葉も声帯もやがては失われていく。
現状では まだその段階にまで至ってはいないが、時間の問題である事は明白である。
しかし、それよりも何よりも問題とされるのは、先に言った怒り、嫉妬、悲しみなどのネガティブな感情を失った人間が、喜び、愛しさ、慈しみ、思いやり、といったポジティブな感情だけ維持していけるとは、到底 思えない事だ。
つまり、絶対秩序を確立し、理想都市を完成させるという事は、怒り、嫉妬、悲しみなどのネガティブな感情から人間が解放されるのと同時に、喜び、愛しさ、慈しみ、思いやりといったポジティブな感情までも剥奪されてしまうのではという事。
はたして…それが 我々人間が求めてきた理想の姿なのか?
そうしてまで、我々人間は存在し続けていこうというのか?
そもそも『理想』とは何だ?
日常をはじめとし、表情や言葉、声、感情の全てを失い。
嫉妬や憎しみと同時に、恋人や家族を愛しむ想いも、慈しむ事も忘れ。
怒りや悲しみと同時に、友人や自らを思いやる気持ちも、分かち合う喜びも忘れ。
抜け殻となって生き続けていく事なのか?
人間たちよ目覚めの時だ!
我々は失ってはならない!
恋人を抱きしめるための温もりと愛を!
友人を支えていくための力と思いやりを!
そうする事で得られる喜びを、安らぎを、幸せを!
始まりと終わり、そして光と闇が互いに無くてはならないものであるように。
悲しみを知らずして どうして人を思いやれようか。
怒りを覚えずして どうして何かを守る事が出来ようか。
嫉妬せずして どうして成長していける?
我々は忘れてはならない!
人間である事を!
初めと終わりを繰り返す、光と闇で創られた、この世界の一部である事を!
人間たちよ目覚めの時だ!
例え それに伴い、犠牲を払わねばならずとも。我々は戦わなければならない!
初めと終わりを繰り返す、光と闇で創られた、この世界の一部である…人間として!
失ってはならない大切なものを…守るために!