novel

君が産み出した 僕らの小さな希望

櫻 朔弥

「お父さん、なんで私を産んだの?」
いつもなら 『そうだ!ハルはお父さんがお腹を痛めて産んだんだぞ!!』
そう切り返すだろうはずのいつも饒舌な父親は……黙ったままだった。
  

「とりあえず…ハルの部屋へ行こうか」
そう言って父親は、居間から場所を移した。


怒ったのだろうか?
そう思い、恐る恐る見上げれば、父親は…

「学校でイジメられてるのか?」

……産まれて初めて見る顔で
泣き出しそうな顔で……娘“ハル”に聞いた。
その顔が、情けなさそうな、切なそうな…いつも見ている、自信たっぷりな父親とはかけ離れていて
ハルは一瞬言葉に詰まった。

「そうじゃないの」
「じゃあなにか辛いことでもあったのか?それとも嫌な事か?」
………
沈黙。流れる時間。

父親は、無言の娘を静かにベッドに座らせて、その隣に自分も腰を下ろした。
「…なぁハル。ハルもこの世に産まれてきたからには、一人の人間として、父さんやお母さんと違う考えを持っていて当然だと思ってるよ。だから、どうしてそう思ったのか…教えて欲しいなぁ…父さんは。父さんに言いにくいならお母さんにだっていい」
ハルは俯いていた顔をあげて
「お父さんでいい。お母さんには…可哀そうだから」
そう答えた。
自分が、父親でさえ泣きそうな顔をする程に困った発言をしたのだと、言ってしまってから気がついた。
いくら普段は冷静沈着な母親とはいえ、父親以上にショックを受けるかもしれない。
そういう意味での「可哀そう」というハルの言葉を父親はちゃんと分かってくれたようだった。
「ああ見えて、お母さんは心配症だからなぁ。じゃあ、代表って事で父さんに教えて?」
重すぎず、軽すぎず、ハルに負担がかからないようにと、父親は言葉と雰囲気を選んだ。
それでも、ハルは中々言い出せなかった。
言いたくない訳ではない。なのに…言葉が出てこない。
「…じゃぁ、ハルは父さんが嫌い?」
父親の言葉に、ハルは左右に首を振る。
「…じゃあ、お母さんが嫌い?」
そうじゃない。
そう言うように、プルプルと首を振った。
「学校は?」 
友達は?先生は?
問い詰める風でもなく、まるで友達が、好きな食べ物を訊ねるような様子で、父親がハルに訊ねていく。
「じゃあ…“ハル”は?嫌い?」
その言葉に、ハルは首を振らなかった。
「好きじゃないの?」
俯いた娘に、小首をかしげて父親が覗き込むと…娘は唇を噛みしめているようだった。
「ダメダメ。ハル…我慢するくらいなら泣きなさい。ほら…」
食い縛る小さい頬を諭すように撫でて、軽く背中を叩く。
「父さんはさぁ、ハルが大好きだから…こうして逢えてとてもうれしいよ?」
軽く背中を叩く手のリズムに合わせて、ポロポロとハルから涙がこぼれた。
「どうしたぁ?ハル??」
相変わらず、ちょっと間の抜けた喋り方で問いかけてくる。
でもそんな時…いつだって父親は自分の返事を待ってくれていた。
「おいで」
父親の左腕に抱き寄せられて、ハルは父親のTシャツにしがみついた。
「世界には…恵まれない…子供達が…いっぱいいるの」
切れ切れに、娘が呟いた言葉は、父親が思いもよらない事だった。



母親譲りの美しい黒髪が小刻みに揺れていた。
「でも…私、何もできないの」
その黒髪を撫でながら、父親はTシャツにしがみついたままボソボソと呟く娘の言葉を細大漏らさず聞き取っている。
「もしかしたら…私より、もっともっと頭のいい子達が…病気で……」
何度かしゃくり上げて
「戦争とかで……」
そこまで言って、ハルは堰が切れたように泣き崩れた。
その先は、言わなくても汲み取れる。
“死”だ。
「だから…だからっ…」
言いかけた言葉を躊躇うように、何度も嗚咽を繰り返す。

“だから”

父親は、急にその先を聞くのが怖くなった。
きっと…だから、力のない自分が代わってあげたい…と
そういう類の言葉が出てくる事は確かだと思えた。
涙のピークを迎えたのか、咳きこんだハルの背中をさすりながら…
どう言葉をかけようか。
ハルが優しい子だというのは、言われなくても分かっている。
(だって、アイツの娘で俺の娘なんだぞ?!)
けれど、『ハルは優しい子だね』なんて言葉では…きっと何かが違う。
もっと、的確で…もっとわかりやすい言葉を…。

父親は……


一瞬迷って……



すぐ悩むのをやめた。



だって…人生は…甘くない。
いつまでもこうして自分が守ってやれる保証はないのだから。



「でもな、ハル」
背中をさする手はそのままに、父親は決意して口を開いた。
「ハルの人生は、ハルの物でしかない。誰とも代わる事はできないんだよ。だから、ハルが自分の人生を要らないというなら、もうそこで終わってしまうんだ。例えば…何かのドナーとして誰かに命を託す形はあるかもしれない。でも、今、健康でいるハルがその命をまるごと誰かにあげることはできないことなんだよ…解る?」
父親が言った事は、いつもの口調でありながら、いつもより重みのある言葉に思えた。
少し落ち着いたハルは、それでも涙で顔を濡らしたまま父親を見上げた。
「何もできない訳じゃないよ?ハルはこれから出来ることがいっぱいあるんだよ?ハルが頑張れば、医者にもなれるし、海外に渡ってそういう人達の生活を助ける活動に参加する事もできる」
「…OLでも私は役に立つ?」
その言葉に父親は小さく笑って、娘の涙を拭いた。
「なんだなんだ?もう挫けたの?」
からかうような父親の顔にハッとして
「もっ…もしもだもん!」
ハルは慌てて訂正した。
父親は、ハルの髪をくしゃくしゃとなでて”勿論”と答える。
「OLだって簡単だよ。働いているなら、おやつを我慢してそれを募金できる。それなら今のハルにもできるだろ?お年玉の一部を募金したっていいし、逆に…それを貯めて、いい大学に行ってもいいかもね。その分、自分の学んだ事を生かしていっぱい人の役に立てばいい。なんだっていいんだよ?歌手?モデル?漫画家?なんだっていい。世界の子供達だけじゃなく、病気で苦しむ子どもや…大人に力を与えてあげる事ができるんだ」
「そっかぁ…」
父親に寄りかかった状態で、子供ながら…しみじみとつぶやいた。
その様子が、あまりにも可愛くて父親は微笑んだ。
「…そっかぁ…」
ちょっと残念そうに、そう言ったハルの顔は父親からは見えなかった。
「ハル?」
………
娘の体を支えて様子を伺うと、小さく寝息を立てている。
苦笑しながら、そっとベッドに横にして、汗ばんで張り付いている前髪を払ってやる。
「…悩むスケールが違うよ。さすが、ウチの家系の子供だけあるな」
愛らしい額にキスを落として、父親は静かに部屋を出た。





「なに?リツがハルの部屋に籠るなんて…何かあった?」
”お母さん”…と呼ぶには年も、みた目も若い母親が心配そうに聞いた。
「ハルがさ、人の心配をしてたんだ。それもさ、世界中の人間相手に。この前まで一人で箸を持つのもオタオタしてたと思ったのに」
父親がうれしいような悲しいような複雑な顔をした。
「…リツ…その顔すごく変な顔」
愛妻に突っ込まれて、「いつもこの顔ですよー」と返す。
「”オムツ変えてやったのに”なんて娘に嫌われるセリフNO,1だからね。気をつけないと。それに小学校に入ったんだもの。色々教わる事だって…」
…良いことも・悪いことも。
キッチンのイスに座った父親の前に湯気の立つカフェオレが置かれた。
「あ、さんきゅ」
少し大きめのカップを両手で持って、ぼーっとするリツは学生の頃と変わらない。
小さいカップだろうと、ティーカップを両手で持つのはリツの癖だった。
そんな、小さな癖が妻は好きだった。
リツと恋愛という恋愛をした覚えもなく結婚に至った妻だったけれど(そういうと、リツが落ち込むので言わないようにはしている)そういう小さな癖を見つける度に、自分が結婚したんだと実感が湧くし、不思議な事に好きになるのだ。
「飽きない…って凄いね」
妻の口からつい零れたれた言葉。
「え?」
「ううん。こっちの話。ちょっと違う事考えてた」
珍しく、照れたような…そしてそれを隠すような妻。こういう時のリツの勘は鋭い。
「…もしかして、俺の魅力を再確認?惚れ直した?」
核心を突かれ、まっ白い肌が桜色に染まる。耳に至っては真赤だ。
「あれっ?図星?」
とぼけた口調だけれど、こういう時は決まって自信アリなのがこの男。
その証拠に、いつも以上に顔が緩みまくっている。
反論できなくて…妻は手の甲で口を覆って顔を反らした。

昔だったら「違うし」と一蹴されていた事がこんなに嬉しい事に変わるなんて。
照れるとか、顔色が変わる…というのが無い妻だっただけに、”一目惚れ”で結婚まで押し切ったのは無謀だったかと、思う日もあった。
でも、こうやって…今、自分を好いていてくれる事が分かる事がうれしい。
「ごめんごめん。でも、俺の言った事、嘘じゃないって…今分かったカンジ?」
椅子から少し立ち上がって、テーブルの傍に立ったままの妻の手を引く。
「う……ん…」
まだ、赤い顔で妻は、ちょこんと頷く。
こういう素直なところも可愛いところだ。

リツがプロポーズの時に言った言葉の一つ…というよりも
彼女に会うたびに、口にした口説き文句が
「俺って飽きないとおもうよ?」

彼女はそのセリフの意味を今頃体感していた。
…もう何年も過ごして、子供も生まれているのに
なんでこんなにこの瞳にドキドキするのだろうかと。
思えば思うほど、顔の火照りが引かない。
…もしかして…今頃だけれども、”恋愛”をしているのかもしれないと思う。

テーブルに片手をついたまま、リツが立ち上がる。
繋いだ手が引き寄せられる。
「ごめんってば」
テーブルについていた手で
顔を覆っていた妻の手を優しく除ける。
自然と、両手がつながれた状態で向き合う2人。
「サイコーに可愛いよ」
真剣に、でもちょっと笑いながら言ったリツの顔が近づく。
妻が瞳を閉じる…
…唇が…重な………

ピンポーン!

突然のチャイムに飛び跳ねるほど驚く2人。
驚いた事に驚いたように、リツまでもが真っ赤な顔で妻を見やった。
「くっそー。驚いた俺ってかっこ悪ぃー」
驚いた自分を自分でゲラゲラと笑って、呆然としている妻の隙をついた。
chu!
「!!」
「役得!役得〜♪」
鼻歌まじりに玄関へ向かう。ドアの向こうに誰がいるかは分かっている。
それがこの父親の特技だった。
「…」
玄関に行きかけた足で妻に振り返る。
言い聞かせるのは…自分にかもしれない。
「守ってやろうな…俺達で…ハルのこと」
うって変って、真面目な顔のリツに黙って頷く妻。
リツは、頷き返して廊下の奥へ消えた。

幸せで仕方がないと言える環境の中に一家は居た。








この今の幸せが…形を変える事になる日が来るのは
また
別のお話。

end

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