novel

人の降る街
― Angel Syndrome ―

些谷将臣

-Outside-

幻…? そんな事は有り得ない。
だって君は 僕の目の前に、確かに存在しているのだから。
ほら、ちゃんと触れる事だって出来る。そんな君が…どうして『幻』なんだ…。

僕は、目の前でうずくまってしまった彼女に そう言って聞かせました。
けれど それでも彼女は首を横に振り、決して顔を上げようとはしてくれず…。
だから…僕は覗き込むようにして彼女の目の高さに合わせ、こう言ったんです。
 
どうして そう思うの…? 理由を聞かせて…?
 
すると、彼女の瞳は もう涙で一杯でした。
今にも溢れそうで、言葉をかけるのも恐る恐る。
 
ほんの少し耳に入るだけでいい。彼女が拒絶しないように、僕は囁きかけました。
こういう時は空耳 程度でいいんです。何か聞こえたなというくらいで。
そうすると、例え相手が まともに話を聞けない状態でも、割と すんなり聞いてくれる。
そして それは、彼女の場合でも例外ではなく…。
彼女は次に、うわ言のように言い始めたんです。


だって…だって… 誰も わたしを見てくれないから…。
翼も無くしてしまって…。
空に帰りたくても、もう帰れないから…。

わたしには帰る場所がないの。

帰る方法は たくさん考えたけれど…何をためしてみてもダメだったの…。 

…ダメだったの…。


人は誰しも 幸せを求め生きていきます。 それは何故か。
彼女の言った言葉に合わせて言えばこうです。
 
例え憶えていないとしても、幸せを求める人は皆
魂に刻まれた何かに突き動かされて生きている。
例えば『暖かい空に包まれていた』頃の記憶…。
彼女でなくても、そう…皆。
 
幸せを求める人は皆… 強く…『強く愛されていた』…。 
 
もしかしたら幼少の頃、あるいは前世と呼ばれる程 昔の事かもしれません。
そして同じように、彼女にも そういう頃があったんです。
 
空に包まれ、自由に飛ぶことが出来た…鳥のように…天使のように。
人の幸せを願い、また それを運べる程に満ち足りた頃があった。
だからです。その頃とのギャップが激しいだけ、人は次第に何かを見失っていく。
 
これまで、どれだけの人間に愛されて生きてきたのか。
これから、どれだけの人間に愛されて生きていく事が出来るのか。
自分にとって、それが何なのか。どういった意味を持つのか。

そして、ただただ自らを責め続けるんです。
過去の温もりが 今ここに無いのは、自分にそれだけの価値が無いからなのだと。
だから僕は彼女に言いました。


君は昔、確かに愛されていた。空に包まれるように。
しかし今それが 君の手元に無いのは、決して君のせいではないんだよ。

しかし、いくら言っても彼女は聞き届けてはくれなかったのです。


ダメ…いけない…逃げてください…。
翼をなくして地を這うような わたしなんかに『愛』なんて…
与えられなくて当然なんです。
だから、あなたも どうか目を覚まして。
わたしは『幻』… もう消えてしまうだけの存在なんです…。


その日も、一方通行の会話で終わりましたが。それから数日後の事でした。
彼女の妹からの知らせを受け、僕は知りました。
彼女が…中層市を支える柱の吹き抜けから飛び降りたと…。
 

今、俗世で密かな問題になっているエンジェル・シンドロームの症例には、二通りあります。一つは、十分な愛を得られないと感じた人間が理想の恋愛を求めるあまりに、自分の中に架空の恋人を作るパターン。そして もう一つは…理想とする恋愛に至らない現実を拒絶し、それは不十分な自分のせいなのだと、翼を失った天使のように自滅していくパターン。 
 
彼女の場合は、二つ目の症例にあたりました。
けれども僕は、もう彼女のような人を診る事もありません。 
 
そう…。
 
彼女は僕の…最後の患者。
 
これから どれだけの人に愛される事が出来るのか…彼女は知らずに自らの命を絶ちました。けれど、それならば せめて、僕だけは永久に彼女の傍に居つづけたい…。
そう思いました。
ですが。そう考えて足を運んだ進入禁止区域で、あの人に出会ったんです。
 
柱の吹き抜け際に立ち、青く青く輝くブルーメタルの光に包まれた世界で…彼は言いました。
 
「つい先日。ここから一人の少女が飛び降りた…。彼女で何人目だと思う?」
 
分からない…。
こんな世界では、そんな事など政府機関が適当に管理している程度の話。
けれども、それが嫌で嫌で…僕はこの街でカウンセリングという仕事を選び、これまでやってきました。ですが、…それも もうお終いにしたい…。
 
うわ言のように、僕は そう言って彼に返しました。
すると彼は、なら最後に言わせてもらうが と言って続けたんです。
 
「…これから どれだけの人を救えるか…貴方はまだ知らないだろう…」


幻…? そんな事は有り得ない。
だって君は 僕の目の前に、確かに存在しているのだから。
ほら、ちゃんと触れる事だって出来る。そんな君が…どうして『幻』なんだ…。
君は昔、確かに愛されていた。空に包まれるように。
しかし今それが 君の手元に無いのは、決して君のせいではないんだよ。


『その言葉で救われる人間が…この世界にどれだけいるか。
  貴方はまだ知らない。
  まだ この世界に残っている天使たちを…どうか置いていかないで…』
 
 
その時、僕の目には ただ涙が溢れるばかりでした。
 
彼女は僕の 最後の患者…。
 
そして彼は、僕が 最後までついて行くと決めた…青き翼の指導者…。
 

『Angel Syndrome』
−END−
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