novel

人の降る街
― A棟102.5号室 ―

些谷将臣


中層市。天蓋区。
『グリム・ルービッヒ』ブロック…28-RED-003…。
オリオンA棟…102.5号室。

その一室の存在を知る者は 誰一人としていないはずだった。

 
『カツカツっ…パリっ…』
キッチンの角で卵の殻を割る音。
『カシャ…ジュジュー…』
両手で殻に入ったひびの間から二つに割ると、熱せられた黒いフライパンに たぷんと落ちた白身に 黄身が浮かんで揺れる。
目玉焼きを作る傍ら、一人の男は目の前にいくつか並んだグラスを一つ手に取り、空いた二本の指で蛇口をひねった。
『キュ…キュ…』
勢いよく流れ出る水。少しばかり弱めてグラスに注ぐと、ボトルグリーンのパンツのウェスト部分に親指をかけ、彼はそれを一気に飲み干す。
そして しばし火元を離れた彼は、流しの正面に立ち傍らにグラスを置くと、水の流れる蛇口の下に頭を突っ込み、水の勢いを強くした。
『ジャジャジャーっ…』
後頭部に打ち付ける滝のような水。苦しくなった頃に空けた口元をつたい流れるそれは激しい量。パンツセットであるスリーブレスジャケットの肩越しにまで水が弾け飛ぶ勢いだった。
『キュ キュ…キュ…』
まもなくして再び蛇口を捻り、水を止めると。彼は手元のタオルを取って頭にあてがい、 顔を上げる。
朝シャン終了。
プラチナゴールドの短髪から頬に滴り落ちる雫を拾いながら ふと見ると。目の前に自分の顔を映し出す小さな置き鏡。
自らの目と合う視線。
彼は目元を吊り上げ、睨むようにして眉間にしわを寄せる。
 
別に機嫌が悪いわけではない。けれども彼はいつもそうした。
そして それは癖のようなもので…
「ルシカ…」
そう呼ばれた彼の 人柄になってしまっていると言ってもいい。
 
振り返ると彼の名を呼んだ もう一人の男が、心持ち横向きに木製のイスに座り、くつろいだ様子で雑誌を見る片手間、コーヒーを飲んでいた。
前ボタンをいくつかはずして着こなされた白いシャツ。まだ着替えも済ませていない様子。
何だ…。
そして、そう言うように無言で睨んでくるルシカの視線を感じた彼は、カップをテーブルに置くと、次に一言こう言った。
「目玉焼き…」
すると、だから それが何だ…。ルシカは一息吸って言ってやろうとした。が、そうした時だった。 ほのかに漂ってくる あってはならない薫り。
ルシカの頬が ヒクリとする。
「…焦げてるぞ」
しかし彼が言い終わる前に、首に掛けていたタオルをバッと引き、握り締めると、ルシカはズカズカと大きな足取りで火元に戻っていた。
「馬鹿野郎! それを先に言えっ!」
珍しく、低い声を張り上げるルシカ。
それが おかしくて、男は小さく声を立てて笑った。
少しは堪えたつもりだが、そうはいかなかった。
雑誌の紙面に視線を戻し、聞いていると。吊るしてあったフライ返しに手を伸ばし、ガチャガチャと音を立てて取る様子のルシカ。
片手で持ち替え カスっカスっとフライパンを擦る音が実に不機嫌そうだった。
大の大人が目玉焼きに苦戦の図。
またチラリと見てみると、その後姿が何とも微笑ましく映った。
 
自分も彼も、まだ幼かった頃…。
いつも食事を作ってやっていた自分の傍らに、ただ ずっと立っていたルシカ。
ある日、イモの皮剥きをしようと引き出しからナイフを取り出したところ。彼は突然それをふんだくってキッチンに置いたイモを握り締めた。
「……」
おっかな びっくり。
それをどうするつものなのかと見ていると。見よう見まねか、彼はイモの側面にナイフをあて…。
 
『ゴスっ……』 
  
真っ二つに切った…。 
  
期待を裏切る あまりの事態。 
しかし、何事かと思って言葉を失っていると、 
『ゴゴンっ ゴロゴロ ゴロ ゴロン…』 
彼の手元から落ち、流しで転がるイモの片割れ。 
 
皮を剥き始めるものだと思いきや…どうやら手が滑ったらしい。

駄目だ。見ていられない…。
けれども、そう思ってナイフをよこせと手を伸べても、ルシカは言う事を聞かない。
クルリと こちらに背を向けて、俄然やる気のようだった。
背中、肩越しに伺える努力。
その日から…彼の手の傷は増える一方だった。
そして またある日。熱を出して朝からベッドに伏していた時の事。
日中のほとんど差す事のない日の光が、暮れかかった頃になって窓辺を赤く染める様子を、横になりながら眺めていた時だ。
『ガチャリ…』
部屋のドアが開く音がして、起き上がりながら振り返ると。
皿の乗ったトレイを持ってルシカが現れた。
うつるといけない。部屋には入るなと何度も言って聞かせていたのに。
彼はベッドの傍らにあった丸テーブルにトレイごと それを置くと、 食え…。 と、ただ そう言わんばかりの視線で こちらを睨んできた。
その時、あ…っと思って皿を見ると、ジャガイモのスープ。
そこからゆっくりと ルシカの手元に視線を送ると。彼の手の小さな傷が、また いくつか増えていた…。
駄目だ。見ていられない…。
堪らない気持ちになる。
傷だらけになった手を取り、そっと引き寄せ、ベッドの端に座らせて…想いの限りに きつく抱きしめる。そうすると、まだ体の小さかったルシカは一言、ぽそりと言ったのだった。
 
「馬鹿は風邪引かないって言うがな…」
 
可愛い声でトゲトゲと…。 くすぐったい。
 
高層市で両親を殺された彼が、ようやく言葉を取り戻し始めて間もない頃だった。
その時には既に馬鹿呼ばわりされていたと思ったが…。
はて。もう どれくらい言われ続けているだろうか。
お馴染みの事になっているので 気にもならなくなっている。
しかし、ある時 訪ねた事があった。
『俺を馬鹿よばわりするのには何か理由があるのか…?』
すると彼の答えはこうだった。
 
「ロジャーに拾われて…お前と会って…。
当然 初めのうちはお前の事もロジャーの事もよく分からない人間だと思っていたがな。
三日目になってだ。ロジャーよりも先にお前に対して思った事だ…」
 
『馬鹿だ…コイツ…』
 
「ってな。 よく憶えてるぞ…?」
 
愛用のライフルの手入れをしながら そう言って最後に顔を上げた彼は、僅かに笑みを浮かべていた。
『笑み』…と言うより『薄笑い』に近かったのが、気持ちの何処かに引っ掛かるが。
何をしていて そう思われたのかまでは聞かなかった。
だが、何となく納得がいく。自分の事だ、そう思われても不思議はないと…。
実際 いい奴だと思われる事は決してないのだと、自分でも思っているからだ。
けれども今思い返してみれば、少し気に掛かるところ。
今度また機会があったら訪ねてみたい。
男はそう思って再び雑誌に視線を戻した。
 
テーブルに置いたカップに手を伸ばすと、丁度よく皿を持って目の前の席に座るルシカ。
相変わらずの様子で彼が 眺めるだけの雑誌の紙面を見ていると、ルシカは座りがてら彼の前の皿に手を伸ばす。
そして、おもむろに手持ちの皿とすり代えると、何事もなかったかのように コトリとまたそれを置く。
「さっさと食ったらどうだロキシ。そろそろ時間だ」
見るとルシカは そう言って中央にあったトーストを取り、先程までこちら側にあったはずの半熟目玉焼きにフォークをぶっ刺し、食べ始めていた。
ロキシ…そう呼ばれた彼は しばし硬直。さりげなく置き換えられた手前の皿に視線を落とせば、哀れ…周辺が黒く焦げた カチカチ目玉焼き。
白身と黄身の判別がつくだけ 今日はまだマシか。
そう思ったロキシも 間もなくしてフォークを取った。
が、それでいいのか。そういう問題か。
少しばかり心をかすめる…。
 
しかし まあいい。彼は思った。
食えなくはない。
 
そして、程よくして朝食を済ませた二人が消えたキッチン。
朝日も上り、再び薄暗く影に飲まれた中層市。
あるはずのない部屋の、あるはずのないテラスに出た彼らは防護服に身を包み、視界に広がる街を見下ろしていた。
ルシカが ふと隣を見ると、下界を見つめるロキシの濃紺色をした前髪が、吹き込んだ風になびく。
不思議と落ち着くその光景に見入りながら、ルシカは傍らに立て掛けていたライフルを持ち、手際よく装弾を確認、位置に就いた。
すると、その様子を見たロキシは再び中に戻り、部屋中を這い回った配線が集まるデスクに着き、大掛かりな機器装置の割りに合わない 小さなノート型メインコンピューターの電源を入れ、スタンバイの完了次第、キーボードを打ち始める。
そして とある回線に接続。『スパイラルネット』と称される、シャングリラの自治政府が主に侵入権を持つそれを通じて開いたのは、政府警察の内部域。
そこで また、内線コードのリストを指定。更には 情報から得た特定のコードを入力。
アクセスを開始した。
一方でルシカは、耳鳴りのように吹く風の音を聞きながら、その時を待つ…。
スコープ越しに見るは、黒い光沢を帯びた新しめのビルの外壁、そして窓。
立ち並ぶビルの合間に、ただ一箇所。目標とする一室内を狙うためだけに この場所は選ばれた。
 
中層市。天蓋区。
『グリム・ルービッヒ』ブロック…28-RED-003…。
オリオンA棟…102.5号室。
 
裏の世界に精通する一人の男から得た情報。
 
『中層のグリム・ルービッヒ住区を建設した男は数年前に死んでいるが、
彼は各棟に隠し部屋を造らせていたという話だ…。
そこでだ。望みに適うようなら、話をつけてやってもいいが…?』
 
二人を手塩にかけ育て上げたロジャー…その友人。
高層市の上位貴族、カルロスからの持ち掛けだった。
 
繰り返すコール音。
選び抜かれた一室で、ロキシは応答を待つ。
 
 
『トゥルルルルルルル… トゥルルルルルルル…』
 
 
「誰か。鳴ってるぞ? …おい!」
その時、また一人の男が言った。
デスクに着いて大事な書類を制作している途中であったのに…。
顔を上げてみれば誰もいない。
「何だよ、始末書に精だしてるのは俺だけかぁ?」
とは言ってはみるものの、聞く者もいないので ただの独り言。
彼は ため息をつきながら、のそりと立ち上がった。
先程から鳴り続けているのは目の前、三つ向こうのデスクの電話だ。つまり窓際。
「部長の電話を一介の刑事なんかが取っていいもんかねぇ…」
やれやれ…。頭をかきながら相変わらず急ぐ様子もなく、彼は歩く。
それでも電話が切れる事は無い。誰だか知らないが、急ぎの用なら ますます取り辛い。
興味にそぐわない厄介事だけは勘弁だった。
部署でも選りすぐりの敏腕ダメ刑事。ただでさえ周囲の了解を得ない単独行動が裏目に出て、始末書を書く手間が堪えない日々だというのに。
それでもその仕事をしていられるのは、とりあえず、それなりの実績を認められているからではあるが。どうでもいいような事に首を突っ込みたくはない。
「はーい…。政府警察セントブルグ署…」
我が道を行く性分。いい加減な言い草で ようやく受話器を取る彼。
「久しぶりだなハワード。昔はロジャーが世話になった…」
しかし、それに対して返って来た言葉に、彼の言動は一変した。
「……。誰だ…」
低く、短く。ゆっくりと伸ばした背筋を緊張させ、問い返す。
「誰でもいい。聞かれて答える馬鹿はいないだろう」
すると、この質問に答えられない人間がする事なら 知れたところだと、ハワード…そう呼ばれた彼は考えた。
犯行声明か…。
しかも あのロジャーを知る誰か。その上、聞けば その親しかった間柄まで伺える。
数人、思い当たる人物もいたが、それでも彼は悩んだ。
それにしても 奴らなら もういい年だと。しかし声の主は まだ若い。
……誰だ。
だが、彼が考えている間も考慮してか、それとも無駄な時間を省くためか。相手は彼が答えをみつけるのを待たなかった。
引き続く話。
「だいぶ前になるが、こちらの世界で違法にあたる銃の取り引きがあった。そして それ以前の話だが…気に掛かってな、政府警察の とある署から押収物の保管庫に潜入して一つ手を打たせてもらっていたんだが…」
「おいおい…何に対してだ」
そして、相手の突拍子もない話にハワードが問い返した時だった。
 
あの一室で……ルシカは引き金を引いた。
 
『バシュンッ…!!』
 
コンマ数秒の青い閃光。
中層市をオフィス街を切り裂いたそれは… 
 
『カシャンッ ゴォオオオォォォンッ…!!』
 
視線の直ぐ横。頬を掠める程に近く。
針金のように細い弾道を描き、ハワードの背後の壁を打ち砕いた。
『ガラガラ…ガラ…』
崩れ落ちる壁骸。
「当たっていたら 体が吹っ飛んでいたな…。押収されていたはずの このライフルだが、
先に話した保管庫でマークさせてもらっていたうちの一丁だ…」
 
 
『こんなものを易々と横流しするような奴が…いつから政府警察内にいたものかな…』
 
 
『プツっ… ツー… ツー… ツー… ツー…』 

耳に残る不通話音。
 

中層市。天蓋区。
『グリム・ルービッヒ』ブロック…28-RED-003…。
オリオンA棟…102.5号室。

その一室の存在を知る者は 誰一人としていないはずだった。

 
謎の男のコンタクトから五日後。
捜査線上に ようやくその場所が浮かび上がるまでは…。
逆さに建造される建物の上から数えられる階数、B38にあたる。
通路の突き当たりにある掃除器具倉庫内。棚の裏に、その部屋の入り口はあった。
「こりゃあ またレトロな仕組みだな…」
こんな時代に忍者屋敷か。
捜査員達の仕事の最中。ハワードは一歩 部屋に入って言った。
そして、歩いていった先のキッチンで彼はあるものを目にし、ため息の後に続けるのだ。
「…どんなもんだろうな。 笑える話か? これは…」
彼の視線の先にあったのは、テーブルの上に残された、反政府派グループメンバー撲滅を記載した…数年前の雑誌と、二組の食器。
 
「ロジャー…。お前も目玉焼き…好きだったな…」
 
 
反政府派組織の再結束声明が揚げられたのは…その数日後の事だった…。
違法改造型ライフルの横流しという汚点から、市民の不信感の煽り。
政府警察内が騒々しく揺らぎ始める。
 
残された食器から検出されたDNAや人物のデータはこの世に存在しないものだったという…。
反政府派と言うからには敵。しかし、もしもあの時の相手が あのロジャーの忘れ形見だとしたら、話は違ってくる。
ハワードは内心、思っていた。
 
  
何しろ、あの二人のデータをこの世から抹消してやったのは…俺だからな…。
 
 
『A棟102.5号室』−END−
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